-加治田城(かじたじょう)と堂洞城(どうほらじょう)の合戦-

 永禄8年(1565年)に織田信長は関・加治田・堂洞の中濃三城を制圧するため、この富加町にも攻めてきました。この時の様子が信長の一代記である『信長公記』に詳しく述べられていますし、江戸時代には『堂洞軍記』『永禄美濃軍記』といった軍記物として描かれています。これらによると、それまで西美濃からの攻略を仕掛けていた尾張の織田信長が、中濃を目指して侵攻し始めます。中濃では関・加治田・堂洞の三城が反信長の盟約を結んでいました。この折、犬山城を攻略した信長は、加治田・堂洞に対して圧力をかけてきました。これに対し堂洞城主の岸勘解由(きしかげゆ)は反信長の姿勢を貫きますが、一方の加治田城主の佐藤紀伊守忠能(ただよし)は時代の流れを察して信長の内通に応じます。そして信長の軍勢が鵜沼、猿啄(さるばみ、現在の坂祝町勝山)へと進行し、ついには堂洞城を包囲してしまいます。そして加治田城主の佐藤紀伊守は信長勢と共に堂洞城へと攻め上がり、これを攻め落としました。堂洞城では最近まで炭となった米が出土したそうです。これは、この合戦の時に焼けた兵糧米だと言われています。

 

※地図は、加治田城への登城口である清水寺を表示しています。

所在地 岐阜県富加町加治田
電話番号 0574-54-1443(富加町郷土資料館)